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教授のメッセージ
本研究室は本学の化学科・化学専攻のなかで理論・計算化学を専門とする唯一の研究室です。 化学というと実験をするイメージが強く、化学科のカリキュラムでも学生実験の比重が大きいので、実験をやらない化学研究のイメージが湧きにくいかもしれません。 しかし化学を追求するという意味では、実験と同等の立場にあると思います。 主に化学科の学生さん向けに研究室の特徴をご紹介します。
1. 経緯
まず研究室の背景として、主宰者の私(森田)が化学を志した経緯からお話ししたいと思います。 高校時代には化学は面白いとは思っていましたが、どちらかというと物理や数学の方が好きなタイプの生徒でした。 ただ大学の進路を決めることになって、自分が今後何を学びたいかと考えてみると、 物質がさまざまに変化していく不思議な現象を解明してみたいということに夢を感じて、化学をやってみたいと思いました。 物理や数学志向の近い友人のなかで、化学をやりたいという人は他にいなかったように思います。 その頃日本で初めてノーベル化学賞に輝いた理論化学の福井謙一先生は、「数学が好きなら化学をやれ」 と恩師に言われて化学を志したと聞き、我が意を得たりという気がしたのを覚えています。
しかし大学で化学科に進んでみると、自分が思っていたのとは違うようで、やはり物理系に行った方がよかったのではないかと迷いました。 物理学科の講義の方が面白く感じられ、化学科の学生実験も何だか料理の実習のようで、全く興味をもてないでいました。 大学院に進むときにも進路を決めることができず、先生に相談して結果的に一年留年して、その間に物理を独学で勉強しました。 また日本のいろいろな大学に行って、化学を物理の立場から研究するところを見学させてもらい、 本学の化学科の藤村勇一先生や伊藤光男先生(当時)にもお世話になりました。 ちなみにその頃は暇だったので、以前からやりたいと憧れていたピアノも始めて、今でも大切な趣味として続いています。
しかし一年経っても結局、実験か理論かという選択にも答えを出せずに、とりあえず卒業研究と大学院で実験系の物理化学の研究室に進みました。 卒研で気相の分光実験、修士時代には超臨界流体の中のレーザー分光の実験をやりましたが、 その頃になると、自分は原子・分子の理論から化学を解明することをやりたいのではないかと思うようになり、 博士課程から大学も移って、加藤重樹先生(当時)のもとで理論化学を始めました。
理論化学とは、原子・分子の基礎的な物理法則から化学を解明することであるとみなすと、大きく2つのアプローチがあります。 量子化学と分子シミュレーションです。ごく単純化して言えば、量子化学とは電子の運動を解いて、原子・分子の性質を解明すること、 分子シミュレーションとは原子・分子の運動を解いて、物質(凝集系)の性質を解明することと言うことができます。 物質を電子と原子核からなる系とみなすと、多様な化学現象もこれらの方法で幅広く計算することができるはずです。 私自身は、博士課程から量子化学の研究をスタートしましたが、その後だんだんと分子シミュレーションの分野に比重が移っていきました。 その意味では、理論化学者としてはどちらかに特化するというより、両者にまたがったような立場にいます。 またキャリアの初めに分光実験をやっていたせいもあって、物理化学の実験家にも近いところにいます。 専門を決めるうえでは上のように紆余曲折がありましたが、結果的にはいろいろな立場を知ることができたように思います。
2. 研究方針とテーマ
本研究室で研究しているのは、液体界面の物理化学です。液体の界面は、気相-液相、液相-液相、固相-液相とさまざまなタイプがあり、 それぞれ我々の身近に多くの現象をみることができます。液体の蒸発・凝縮、気泡、エアロゾル、水-油、電極界面などはもとより、 抽出、透過、センサー、化学反応場などいろいろな分野で多くの役割を果たし、使われています。
しかし、我々のように原子・分子のレベルから液体界面を解明しようと、物理化学の対象として捉えると、非常に未開拓であることに驚かされます。 要するに原子・分子のことが良く分かっていないことが多く、その最大の理由は、液体界面の原子・分子を直接に捉える観測方法がほとんど無いからです。 その観測の難しさというのは、他の分野の近い対象と比べてみると明らかとなります。 たとえば溶液(バルクの)化学では、レーザー分光の発達などにより、分子の動きを捉えることができるようになり、分子科学として大きく進歩しました。 また表面化学でも、よく規定された清浄な固体表面を精密に観測する手法は確立して、大きな分野となっています。 しかし溶液化学で使うレーザー分光のほとんどは、液体の中の分子を観測できても、その中のごくわずかな界面の分子だけを区別して捉えることには使えません。 表面化学の手法でも、液体表面のように蒸気圧もあって絶えず動的にゆらぐ表面に適用するのは、大変困難であることが多いのです。 そこで我々は、そのチャレンジングな研究対象に対して理論計算化学の手法を用いて、物理化学の領域を拡大していきたいと考えています。
そこで実際にどのようなアプローチで研究を行うのかが本命の問題となります。 具体的には、以下の2つの大きなテーマの方針をもって研究しています。 その背景を簡単にご紹介します。
2.1 界面和周波発生分光の理論
先に液体表面の分子を捉える実験の方法はほとんどないと言いましたが、例外的に強力な方法として和周波発生分光という手法があり、 我々はその実験を理論解析する手法の開発を強みとして、この分野を開拓してきました。 2つのレーザー光を同時に照射すると、界面で和周波のシグナルが発生するという現象を観測する方法ですが、 この方法の最大の特徴は界面選択性があるということです。 つまり、溶液の内部に同じ種類の分子がいてもシグナルにならず、界面にいる分子だけが観測されるという特徴があります。 これがまさに、液体界面の分子を観測するために不可欠な特徴であり、それを備えた分光実験は大変貴重な情報を与えてくれます。
とはいえ、我々が実験をしているわけではありません。 私が和周波発生分光を知り、その研究を始めるようになったのは、米国のコロラド大学に留学した機会のことでした。 大学のあるボールダーは、他にも国立研究所などが集まった大気環境化学のメッカの一つで、 当時南極のオゾンホールにおけるエアロゾルの役割の解明など最先端の研究が進んでいました。 私もその分野の発展を身近にみて物理化学者として興味をもち、エアロゾル表面で起こる化学反応の研究を始めました。 しかし、水溶性のエアロゾルの表面の分子情報はほとんど無く、困って調べていくうちに和周波発生分光というものがあることを知りました。 それは、1980年代終わり頃に提唱された比較的新しい分光法でしたが、その理論もほとんど確立していないことを知り、 それならば私がやってみようと思って、それまでの物理の知識を総動員して界面分光の理論の開発に取り組みました。 幸い世界でも誰もやっていない初めての研究だったので、この分野のパイオニアとなって、分野をリードする研究成果を出していくことができました。 最近理論開発の集大成として、国際的にも初めての和周波発生分光の理論の教科書も出版しました。 この手法は上に述べたように液体界面の分子を観測できる数少ない手法であったため、理論計算化学による解析の発展によって、 液体界面について従来のレベルを超えた詳しい知見を明らかにすることができました。 これは、国際的に本研究室の看板となる研究テーマです。
2.2 液液界面の物理化学
液体界面は相境界なので、液体中に溶けた物質の移動を制約するという基本的な働きがあり、抽出・分離・センサーなどの機能の元となっています。 そこで混ざり合わない液液界面に溶けた物質の移動をコントロールするミクロな機構を解明するという、基礎的に重要なテーマの研究を行っています。 水-有機物のような液液界面は我々の周りにも多く見られますが、物理化学としてみると大変チャレンジングな対象です。 さきに液体の界面は観測しにくいと言いましたが、たとえば露出した気液界面や、電気化学測定の対象となりやすい固液界面と比べても、 液液界面にある分子を(選択的に!)捉えることはとりわけ難しいといえます。 分子レベルでみると、液液界面の構造は絶えず大きく揺らいでいて、その揺らぎも重要な役割を持つ可能性がありますが、 それは全くといってよいほど観測の情報がありません。
実験の観測が難しい対象には、分子シミュレーションが有効です。 凝集相の中の分子が時々刻々動く様子を追跡して、その動きや構造を調べることができ、我々も分子シミュレーションをフルに使った研究をしています。 ただし、ミクロな機構を解明するためには、単に分子シミュレーションの計算をするだけでは十分でなく、新しい描像と切り口をもって研究することが求められます。 我々はイオン輸送や化学反応の自由エネルギー面という概念をもとに、 界面構造のゆらぎ、イオンの会合、電子移動など、界面で起こるさまざまな現象を表す座標と計算手法を開発し、それを強みとして研究を進めています。 この分野はほとんど手がついておらず、我々はこれまでの分光研究の知見をもとに、未知の液液界面の新しい分子描像を明らかにしたいと考えています。 物理化学の新しい分野を開拓することになる見込みがあり、我々にとって界面分光の理論の開発に次ぐ2匹目のドジョウとなることを期待しています。
3. 終わりに
本研究室は実験をやらない理論計算の研究室で、普通の意味での化学というよりも物理や計算機科学に近い内容も含んでいます。 実際に研究のなかでは物理学科と同レベルの物理を使いこなすことになり、配属後にもそれを重点的に勉強してもらいます。 化学現象を考える際に、原子・分子の法則をもとにして、一歩基礎に遡ったところから化学をイメージすることを徹底的に追究することになり、 その意味では非常に物理化学らしい物理化学と思います。 また研究にあたっては、計算機を大いに使いこなすことになります。 プログラミングや計算機管理の経験も多く、これは実際にやってみて初めて身につくことで、今後役に立つスキルでもあります。
人がやらないことをやるというのは、基礎科学の精神で、是非心がけてほしいと思います。 それには、自分が何をもって納得するのかというセンスを大切にして、自分で問題を設定することが大切です。 そのような研究を始めてみると、しばしば前例となるものがないことが多く、直面する問題を一々自分で解決しなければならなくなります。 多くの学生さんにとって新しい経験と思いますが、そうやって自分で解決して納得する経験のなかにこそ、 研究と通して身に着けるべき実力のエッセンスが詰まっています。 指導する立場としては、それを助けることが最大の役割と思っています。
新しい問題に直面したときに簡単に納得しないということは、決して理解が遅いことではなく、研究を行う人の美徳と思います。 その態度の大切さは、なかなか教員が教えることができないものでもあります。 納得するレベルを高くとる態度は、大学院の研究経験を通して身に着けるべき基礎力として貴重なものであると思います。